言葉の意味は文脈で判断したい

 「死の町」と「放射能をうつす」発言により鉢呂経済産業大臣が就任後わずか9日目であっさり辞任した。この辞任劇の背景に疑問を感じるので、鉢呂氏のみを安易に糾弾する気にはなれない。偏向報道で「辞任に追い込まれた」が真相だろう。それでもやはり大臣の資質については考えさせられる。

 原発事故周辺の市町村を視察して正直な印象が「死の町」だったのだから、その言葉だけを問題にするのはおかしい。「放射能をうつす」も、どこまで真意なのか定かではなく曖昧なままだ。であればこそ『言葉の解釈』というタイトルで以前の日記にも書いたとおり、言葉の意味は文脈から判断しなければ、とつくづく思う。文脈や雰囲気を伝えようとしない報道姿勢こそが問題ではないか。
 
 例えば「馬鹿」という言葉も、文脈や雰囲気で意味はいかようにも変化する。蔑み見下しながら発すれば差別的となり、親しみを込めて発すれば人間関係の潤滑油になる。「馬鹿」だけを取り上げて判断すると誤解を招く。

 ただ、最近の政治家は文脈の意識があまりに足りないかもしれない。今回の鉢呂氏の発言も、言葉自体よりも、その言葉が成立するための周囲への配慮が不足していたようだ。被災者に対する意識が欠如していたに違いない。被災者への意識とは上辺のポーズではなく、内面から発露する共感のこと。権力意識に少しでも捉われると認識が表面的となり、庶民の目線に立てなくなるのだ。

 言葉にできないもっと大切なもののためにこそ言葉は存在する。だからこそ言葉は重要で慎重に用いなければならず、そんな言葉の責任を自覚すべき国家権力の要職たる大臣の口から、またしてもドタバタ劇が演じられてしまった。

 ところで、言葉だけで判断するなら石原慎太郎東京都知事などはこれまで何度辞任してもおかしくない。この人に関しては言葉だけでなく、その言葉を成立させる文脈にこそ問題が潜んでおり、こういう人物を容認しつづける日本社会は深刻な情況にある。

 いずれにしても、言葉狩りで個人を貶める風潮が蔓延するとしたら、とてつもなく怖い。