安倍と小泉、そして知識人と民衆

 総理大臣の安倍晋三だが、彼が小泉純一郎の後継者として誕生したことを忘れるわけにはいかない。そんな似た者同士の二人なのに、今現在、安倍晋三を批判する左翼・リベラルの多くが脱原発だけで小泉純一郎を支援している。

 だから安倍晋三はそれなりに分かっているのだ。たとえどんなに自分が失政を重ねても、小泉氏と同様自分も罪を問われることはないだろうと。

 秘密保護法や集団的自衛権で、日本を刑務所のように統制し、国民をいつでも戦争へ駆り出せる状態へと邁進する安倍晋三だが、もし運良く自分の在任中に戦争が起きなかったなら、むしろ「戦争を起こさなかった総理」として左翼・リベラルからもいずれは好意的に評価される、と本人はタカを括っているに違いない。

 左翼・リベラルの多くがどんなに強く安倍晋三を批判しようと、脱原発へ鞍替えした小泉純一郎への批判を封印したことで一貫性がなくなり説得力がなくなった。イラク戦争加担の責任を自ら認め反省した小泉純一郎脱原発支持ならまだ分かるが、肝心なところを見過ごし、時代に流されてしまうところに戦後左翼・リベラルの脆弱性があるような気がする。

 もし日本人が「過去の侵略・加害の責任をみずからの手で清算」しようとするなら、政治家は民衆を恐れるだろうし、もっと謙虚に振る舞うことだろう。少なくも小泉純一郎へのイラク戦争責任を追求できたなら、安倍晋三は勝手に暴走できなかっただろう。

 民衆の声を代弁するのは良心的メディアや左翼・リベラルの知識人だが、今日のような状況を招いたのは彼らの認識のズレだけでなく、私たち民衆の社会問題に取り組む努力が足りなかったのである。今や、私たちひとり一人の生きる姿勢そのものが根本から問われているのだと痛感する。