器の中

 美術館や博物館では陶芸の展示会がいつも催されている。国内の九谷焼や有田焼や備前焼といった有名どころはもちろん、伝統にこだわらない作りをしたものから、海外の特に古代文明から出土したものなど多種多様な作品が人々の関心を呼ぶ。陶芸に限らず、茶碗やコップ等を含めて人間生活に身近な器類には常に安定した人気がある。

 私は美術が好きなので絵画や彫刻と同様、陶芸にも興味がある。ただ、壺や皿などの器類を数多く展示した会場で規則正しく並べられた作品群を眺めていると、いい加減に飽きてくる。正直に告白すれば、あまり面白くない。形だけでなく色彩や模様を眺めるのは陶芸鑑賞の醍醐味かもしれないが、何か物足りない。

 さて、器にとって最も重要な要素とは何だろうか。器とは何のためにあるのだろうか。自らの形や色彩や模様のために器は存在するのだろうか。そんな外見のために器は存在しないはずだ。外部に囲まれた内部の空間のためにこそ器としての存在価値があるのではないか。

 草花用とか、食物用とか、小物入れ用とか・・・特別に指定されたものを入れるため専用の器もあるだろうが、本来は器そのものに何を入れて活かそうと自由なはずである。指定されたものしか器に入れないとしたら自らの生活様式を型にはめ込むように、人間生活は窮屈になり斬新な発想は生まれにくくなる。繰り返すが、器には何を入れて活用してもいい。

 壺や皿、茶碗やコップ、瓶やグラスなどの器類を見るとき、そこに入れるものを自分なりにいろいろ想像してみると楽しみは倍増する。ところが、ガラスケースに収められてキレイに陳列された展示会の器類からは形や色彩や模様ばかり強く訴えかけているようで、肝心の内部が見えてこない。これは展示する側が器の外見ばかりを気にして内部への意識が薄くなっているからだろう。

 ただ展示すればいいわけではない。見えないもののために見えるものは存在するのであり、見えない存在を暗示させる工夫が必要となる。これは会場の問題に留まらず、作者や鑑賞者の姿勢の問題へと連なり、すなわち人間が生活を営む社会の本質的問題へと行きつく。