裸で勝負

 先週はノーベル週間で、コンピュータを駆使して気候変動を予測した真鍋淑郎氏の物理学賞受賞の発表があった。新聞は一面の大部分をそれで占めたし、テレビのニュースやワイドショーはトップ扱いでかなりの時間を割いていたらしい。

 日本人が受賞したというので大騒ぎしたわけだが、じつは真鍋氏はとっくの昔に米国に籍を移し、日本に住んでもいないから、もう日本人ではない。正式には米国人が受賞と報道すべきだ。

 さて、その真鍋氏だが研究者としては一流、しかし人間としてはどうなのか。研究に専念できたのは炊事・洗濯・掃除等の家事や、車の運転など、いつも妻が身の回りの世話をしてくれたお陰、と正直に述べている。要するに真鍋氏は好きな研究以外の雑事にはほとんど携わらなかったということ。人間として一流になるにはこれでは本当はダメだと思う。

 正直、ノーベル賞なんかどうでもいい。とは言え、日本人の(日本人に限らないが)これまでの受賞者はすべて男性。どうでもいい賞でも男女半々にならなければいかにも不自然。様々な分野で男女半々にならない限り日本社会、そして世界全体は歪なままである。

 それにしても、同じ人物なのに何かの肩書きが付くか付かないか、それで評価がガラリと変わるのはなぜだろう。直近では菅前首相。ついこの間まで日本のトップだった菅さんだが、しかし今では何の役職もないただの国会議員だ。

 周囲は菅さんに首相当時はペコペコしていたのに、首相を辞めた途端、無視するどころか邪魔者扱いしてるらしい。すなわち周囲は人物そのものよりも、その人物を飾る外見ばかりを重視して評価を下すわけである。実際、ほとんどの人がこれに当てはまるだろう。

 人間とはつくづく学歴や収入、地位や名誉や~賞などに惑わされるのだなと思う。当たり前だが「裸」の時に得られる信用こそが本物だ。裸とは、その人の人生観や世界観、生きる姿勢や態度そのものであるのは言うまでもない。寓話「裸の王様」は過去から現在、そして未来へと人類が生存し続ける限り心に突き刺さる。