「家」は嫌いだ

 私は22歳のとき金沢を離れ東京に行ったが、それは仕事の都合でもなんでもなく、ただ故郷を離れたかったからだ。当時、私は家族や親戚や世間体なるものがイヤでたまらなくなり、とにかく「家」的な雰囲気からできるだけ遠去かりたかった。

 今になっても「家」なるものは嫌いだし、むしろ益々嫌いになってきた。特に嫌いなのは「国家」という家で、国全体が家になるなんて真っ平ゴメン。

 自民党個人主義を目の敵にし、戦前の復古的家族主義の実現に力を入れようとしている。例えば、介護は施設に預けるより家族が負担すべきと主張する。だが家族構成は人数や年齢差など様々な形態で成り立つし、家族だから仲が良いと思うのは大間違いで、犬猿の仲の家族などザラなのに、自民党は家父長制の単一的家族主義の枠に嵌めたがる。そんな家族主義という枠に嵌めようとすれば必ず無理が生じる。

 重要なのは「家」ではなく「個人」だ。国や地域を発展させたければ、一人ひとりの能力を引き出す方策を考えねば。個人を「家」という枠に閉じ込める家族主義は視野を狭くし想像力は萎えるばかり。家族主義に染まれば国や地域を滅ぼすことになるが、自民党はどうやら日本を滅亡させたいらしい。

 それにしても日本ではまだまだ「個人」より「家」を重んじる傾向が強く、例えば結婚は未だ個人同士より、家同士がするかのよう。地方へ行けばこの傾向はさらに強まる。

 世間では「家族を大切に」や「人に迷惑をかけるな」がまず第一に前面に出る。確かにその通りとはいえ、それだけだと個人の意思や性が封殺されかねず、「自分を大切に」や「好きなことに挑戦」がどんどん後退して行く。

 今や社会問題と化した介護に関しても「家」が常に付き纏い、親の面倒を見るのは子供とか血縁者でなければならないかのよう、自民党はこの意識を増幅させたがる。家族主義の下では、親は子から、子は親から、本質的に自立できない。

 介護する側とされる側なら、なによりされる側の気持ちを尊重しつつ、公共施設の充実を計り、個人主義を進展させ、気持ちの負担を軽減させる。介護される人たちが進んで施設を利用したくなるような、そんな雰囲気を社会全体で創らなければと思わずにはいられない。