ひとつとバラバラ

 「世界はひとつ」なんてこのブログでも簡単に書いてしまうことが度々あり、自分のお手軽さに気恥ずかしくなったりする。世界から争い事が絶えず、平和になってほしいとの願いからつい口走ったりするが、この言葉の中身を十二分に理解した上でなければ説得力はない。

 「ひとつ」にもいろいろあり、一番分かりやすいのは100人全員が同じ色に染まること。だれもみなが同一の思考と行動で生活を営み、そこには個性的なものなどひとかけらも見当たらない。世界がひとつになってほしいと漠然と考えるだけであまり熟考しない人でも、まさかこんなひとつのあり方を望んでいるわけではないだろう。

 100人全員の色が違い、それぞれ別々の思考と行動で生活を営む。善し悪しは別に100通りの個性が発揮され、はた目から見ると全員「バラバラ」で自分勝手な状況が展開される。世界がバラバラになってほしくないと願う人でも、それぞれが個性的であることまで否定したくはないだろう。

 没個性で変化のない先が見通せる「ひとつ」より、多少のイザコザはあっても明日どうなるか分からない個性的な「バラバラ」の方がマシなことは当然だ。

 「ひとつ」と「バラバラ」は水と油のように混じり合うことはなく、いつまでも矛盾したままつづくのだろうか。だが、この問題はちょっと考えるだけで解決することぐらい誰だって分かる。つまり、バラバラを認め合うことで互いがひとつになればいいだけのこと。

 そうなのだ。「ひとつ」と「バラバラ」は矛盾するどころか頭の中では見事に成立する。つまり、ひとつの広大で肥沃な大地から栄養を汲み取り、色や形が違ういろんな花を咲かせたり作物を実らせればいいのだ。ところが現実世界ではそうはならず、相も変わらず「ひとつ」と「バラバラ」が対立概念のような位置づけのまま、大地が荒れ放題というわけ。

 バラバラだけどひとつになっているような世界を構築すべき。見えるところではバラバラだけど、見えないところではひとつになれるのがいい。逆に、見えるところでは安易に何でもひとつになりたがり、見えないところがバラバラな状況では非常にマズイ。

 じつは、見えないところで(ふだん気づかないところで)ひとつになるのがとても難しく、人間社会の根本問題なのだと思う。