雰囲気が大切だ

 基の存在を人それぞれの解釈で新たに創造するとどうなるか? 芸術分野ではよく試みられるが、見た目は同じでも中身は変質するから表現とは面白い。映画の世界ではリメイクという形をとる。

 関心を抱きつつこれまで見逃した映画作品に「ドラゴン・タトゥーの女」というミステリーがあった。これを最近BSの映画専門チャンネルで観ることができ、しかも本家スウェーデン版とリメイクのハリウッド版とをつづけて比較鑑賞できるチャンスに恵まれた。

 さて、ハリウッド版を観て私が驚いたのは、てっきりアメリカを舞台にして派手な作品に作り替えてるのかと思ったら、舞台も名称も本家と同じスウェーデンで、ストーリーも人物配置もほとんど変わっていなかったこと。にもかかわらず演じるのは英米系の俳優で言語も英語なのである。これには違和感を抱かざるを得ず、残念ながら雰囲気が台無し。だから作品の出来としてスウェーデン版に軍配が上がる。

 スウェーデン版(2009年公開)が世界的に大ヒットしたので急遽ハリウッド版(2011年公開)の制作が決定したらしく、リメイクまで2年の猶予しかないことからハリウッド版は十分に脚色できなかったのだろうか。

 アメリカのハリウッド映画は昔から自己中心的だ。特に言語に関して、戦争物でも歴史物でも、どこが舞台になろうと敵も味方も皆が英語を喋る。以前、「レッド・オクトーバーを追え!」という潜水艦アクションを鑑賞中、最初ロシア人役がロシア語を話していたので納得したが、いつの間にか全員英語を喋り出したのには笑った。作品の質を考えてもっと配慮してほしい。

 「ひまわり」というイタリア映画の名作がある。私が観たのはなぜか英語版。ソフィア・ローレンマルチェロ・マストロヤンニというイタリア人俳優がイタリアを舞台に英語を喋る。イタリアの感じがまったくしなかった。

 ところで、スウェーデン版「ドラゴン・タトゥーの女」の主役を演じたノオミ・ラパスという女優さんは映画の雰囲気に溶け込みハマっていた。そんな彼女がハリウッドに招かれ「プロメテウス」というSF映画に主演したのだが、まったく魅力を感じない。映画の質で俳優の雰囲気も変わるのだとつくづく思った。